『Billie Jean ―偽りの微笑み―』
夜のネオンサインが雨に滲んでいた。
クラブの奥で彼女を初めて見た時、まるで映画のワンシーンのようだった。
光を反射する銀色のドレス、赤い口紅。
誰もが振り返るほどの存在感を放ちながら、彼女はゆっくりと僕の方に歩いてきた。
「あなた、テレビで見たことあるわ」
彼女は微笑んだ。
甘い香りと共に、その声が僕の耳をくすぐる。
僕は軽く笑って返した――いつものように、ただのファンサービスのつもりだった。
その夜、僕は何もなかったことを誓ってベッドに入った。
けれど、数週間後、ニュースが僕の名前を呼んだ。
――“Billie Jean、人気スターの子を出産か?”
その瞬間、胸の奥が冷たくなった。
あの夜の光景がフラッシュのように蘇る。
彼女が踊っていたステージ。
周りの歓声。
そして僕の笑顔。
あの瞬間が、彼女の中では“運命の夜”に変わっていたのかもしれない。
マネージャーは言った。「放っておけ。こういう女はどこにでもいる」
でも僕は放っておけなかった。
僕の名前が、嘘の噂で汚されることが怖かった。
いや、それ以上に、自分の中で“本当かもしれない”という一瞬の不安が怖かった。
ビリー・ジーンは、毎日のように僕に手紙を送ってきた。
写真の中の赤ん坊は、確かにどこか僕に似ていた。
瞳の形、笑ったときの口元。
だが、僕の心は叫んでいた。
“The kid is not my son.”
(その子は、僕の子じゃない)
夜、鏡の前に立つ。
ライトを浴びた顔の中に、知らない男が映っていた。
名声と孤独が混ざり合って、僕の中から「本当の自分」が少しずつ削れていく。
外に出れば、カメラのフラッシュが飛び交い、ファンの笑顔が溢れる。
でもその笑顔の裏に、何人のビリー・ジーンが潜んでいるのだろう。
彼女たちは皆、愛を求め、夢を見て、そして嘘をつく。
僕の名前を使えば、どんな夢でも描けるのだから。
ある日、彼女が突然ステージ裏に現れた。
セキュリティをすり抜けて、子どもを抱いていた。
「見て、この子。あなたの子よ」
彼女の瞳には確信の光があった。
けれど、その光の奥には狂気が潜んでいた。
僕は一歩後ずさり、ただ首を振るしかなかった。
「僕じゃない」
「あなたよ」
「違う!」
声が交錯し、世界が遠ざかっていく。
周りの音がすべて消えた。
ステージのライトだけが、僕たちを照らしていた。
彼女は最後に微笑んだ。
それは悲しい笑顔だった。
「あなたが信じなくてもいいの。私は知ってるわ」
そう言い残し、彼女は人混みの中に消えた。
――それから数年、僕はまだ彼女の夢を見る。
ビリー・ジーンの幻影は、ステージのライトの中で踊り続ける。
どれだけの名声を手にしても、どれだけの拍手を浴びても、
あの夜の嘘だけは、僕の心に刺さったままだ。
人は言う。「あの曲は最高のダンスナンバーだ」と。
でも僕にとってそれは、痛みの記録だ。
「彼女は言った。あなたの子よ」と――
その声が、永遠に消えないメロディとして僕の中で響き続けている。
そして今夜も、ステージに立つ。
スポットライトが僕を包み、観客が歓声を上げる。
ドラムが刻むリズム、ベースが鳴り始める。
イントロが流れた瞬間、心臓が跳ねた。
「She was more like a beauty queen…」
ビリー・ジーンの名が、またこの夜に蘇る。
僕は歌う。
あの偽りの微笑みを、音に変えて。
それが、唯一の償いのように――。
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